岡山地方裁判所 昭和28年(ワ)327号 判決 1955年6月17日
原告 加藤寅一
被告 国
訴訟代理人 西本寿喜 外二名
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告は「(一)被告は原告に対し金一五万円を支払え。(二)原告が戦傷病者戦歿者遺族等援護法第二三条による遺族年金及び同法第三四条第一項による弔慰金の各受給権を有することを確認する。(三)訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求める旨申し立て、請求の原因として陳述した要旨は、大体次のようである。
原告は、元海軍整備兵長(故)加藤勉(大正一五年三月三一日生)の父として、戦傷病者戦歿者遺族等援護法(以下援護法と略称する)の施行に伴い、居町の他の遺族等と同様に、遺族年金及び弔慰金請求書を居町役場経由の上提出したところ、昭和二八年四月二八日岡山県民生部世話課長から「加藤勉の死亡は公務死亡でない旨同年四月二〇日付で呉地方復員残務処理部から通知を受けた」ので、原告の提出に係る右請求書は返却するとのことであつた。そのいうところは、同人は第二河和航空隊において肺浸潤兼左滲出性胸膜炎(第二種病)発病、昭和二〇年二月一四日横須賀海軍病院名古屋赤十字病院に入院、さらに同院山田分院に転院加療中、同年八月一二日肺結核により死亡されたもので、当時恩給法の規定による公務死亡でないことに決定されているからというのである。
ところが、原告としては、勉は昭和一九年八月一五日進んで志願により海軍に入隊し、六箇月程で上等兵になり、死亡と共に兵長にまで進級させられているので、戦死同様の戦歿者の取扱を受けているものと信じていたので、他の遺族と異つた右の如き処置には承服できず、直ちに出訴すると共に、厚生大臣に対し文書で不服の申立をした。(昭和二八年七月六日)
加藤勉は、国家の軍医による身体検査を受けて甲種合格となり入隊したものであり、もとより平素から頑健な体格であつたので海軍にさえ入つていなければ、恐らくは現在も元気でいるであろう。原告は再び帰つてこない勉の父として、勉の死亡を「私死」扱にする処置に非常な不満を感ずる。国民の名誉であると信じ軍隊に志願させた父に対し、且つは、忠誠の心を以て勇躍軍務に就いた故人に対し甚しい侮辱であると断ずるのほかはない。
漸く昭和二九年七月九日厚生大臣は原告の不服申立に対し「原告に対し援護法第三四条第二項による弔慰金を支給する」との裁決をしたが、その理由中において「加藤勉のり病が同人の遂行していた公務との間に相当因果関係ありと認めることはできないので、原告は援護法第二三条による遺族年金及び同法第三四条第一項による弔慰金の受給権を有しない。」「然しながら死亡した加藤勉は、戦争に関する勤務に関連して、り病したものと認めるべきであるので、同法第三四条第二項による弔慰金の受給権を有する。」というのである。
併し、大東亜戦争発生後の内地の軍隊勤務は、戦地の勤務と同様の危険状態であつたので、戦病死として扱うのが正しい処置であると考えられるし、軍隊勤務に関する限り極めて厳格な規律のもとにあり、その生活に関しても私人の干渉を許さなかつた当時の諸事情から考え、さらに、軍が責任を感じて軍の病院で加療していた事実に鑑み、今に至り加藤勉の死亡を「私死」と同様に扱う如きことは許されない。斯くの如きは、全国多数の遺族と共に原告のふんげきにたえないところであり、ひたすら国家のため、天皇のためと一身をなげうつた戦歿者を侮辱するものであり、天皇の大権命令に起因する戦争犠牲者に対し不公平な処遇である。
原告は、未だ六〇才には達しないのであるが、加藤勉の死亡が公務死亡であることの確認を求めて置かないと英霊に申し訳がないと考えるので「私死」ではない、戦病死であるとの確定を求める。さらには、一連の行政官庁の処置が甚だ心外であるので、加藤勉を返せといいたいのであるが、同人が生存していたら獲得するであろう利益を別紙計算書記載のように、原告の蒙つた損害としてその賠償を請求したいが、さしあたり本訴においては、墓標建設費にあてるため、その内金として金一五万円を請求するものである。
被告指定代理人は主文と同趣旨の判決を求め、答弁として原告の主張事実中、原告が亡加藤勉の父であり、加藤勉が元海軍整備兵長であり、第二河和航空隊において肺浸潤兼左滲出性胸膜炎(第二種病)発病、昭和二〇年二月一四日横須賀海軍病院名古屋赤十字病院に入院、さらに同院山田分院に転院加療中、同年八月一二日肺結核により死亡されたこと、死亡当時恩給法の規定による公務死亡でないことに決定されていること、原告から提出された弔慰金請求書を原告主張のような理由から一旦返却したこと、原告からさらにその主張の日頃厚生大臣宛に不服の申立をしたこ
八九
と厚生大臣が原告主張のような裁決をした結果、援護法第三四条第二項に基き、原告に対し金五万円(国庫債券)の提供をして受領を拒絶されたことは認めるが、原告のその余の主張事実は争う、原告の本訴請求は失当であると述べた。
理由
原告が元海軍整備兵長(亡)加藤勉の父であること、加藤勉が海軍第二河和航空隊において、肺浸潤兼左滲出性胸膜炎を発病し昭和二〇年二月一四日横須賀海軍病院名古屋赤十字病院に入院、さらに同院山田分院に転院加療中、同年八月一二日肺結核により死亡したこと及び原告主張の頃その主張の内容のとおり原告の異議の申立に対し厚生大臣が裁決をしたことは当事者間に争いがなく、加藤勉が大正一五年三月三一日生であり、昭和一九年八月一五日頃、現役志願により入隊したものであることも被告の明らかに争わざるところであり、原告が国家から居町役場を通じて弔慰金として五万円の国庫債券の提供があつたのに、これが受領を拒否したことも原告の明かに争わざるところである。
原告が本訴請求のように、被告国に対し賠償を求める法理的根拠は必ずしも明白とはいえないが、昭和二七年法律第一二七号で援護法が制定、施行された以上は、同法に規定する諸種の援護方法の外に、特に国又はその機関が故意又は過失により加藤勉を傷害し、死亡するに至らしめたというのであれば格別、補償的請求はできず、専ら援護法の規定に基いて救済を求めるべきであり、右のように、国が原告に対し不法行為をしたとの証拠も、それらを推認せしめる情況も窺知するに足らない。
或は、原告としては、戦争中の諸種の事情、条件と敗戦を契機とする諸情勢の変化から、国家の道義的責任ないし政治的貧困をついて悲憤こうがいするのであろうかと推察されるところ、こと志と異り、敗戦の憂目を見、且つは、戦争目的ないし戦時下の諸相様が悪く喧伝されてきたために、遺族として耐え難い苦しみを嘗め、国家の救済方法の見るべきものもなかつたので、果ては不満のやりどころないような気持になつたことは、無理のないことであり、国家がそうした戦争犠牲者に対し物心両面からその慰藉に万全の策を構ずることが、国家の道義性の面からみて、又その秩序の維持、国家の再建復興のため特に必要なことがらであり、国民に対し適切公平な措置であるといつてよいであろう。他方、大なり小なり戦争の犠牲を蒙らなかつた日本人は、極めて少数である現実に鑑み、外国との賠償等の案件も完全に処理されていない国家の現状を考察すれば、対内的な戦争責任の追及も、財政的制約のもとに置かれていることを忘れてはならない。
軍隊にさえ、入つていなければ、罹病、死亡もなかつたとする原告の止みがたい心情は、同年輩の青年を見るにつけて原告の心を去来し、回復し難い負担となつているであろうことには、まことに同情を禁じ得ないものがあること勿論である。
そもそも、原告が援護法の定める年金、弔慰金の請求手続を採つたのに対し、当局によつて請求書返却の処分をなされたことが、原告憤激のもとであるように見受けられるところ、当時の同法のもとでは、厳格に「公務死亡」のみが援護の対象とされていたのであるから、当局の採つた処置が必ずしも原告ら遺族を侮辱するものとはいえない。その後、法の不備を反省したものか、昭和二九年四月に至り、援護法が一部改正され、新に戦争に関する勤務に関連する疾病も公務上の疾病とみなされるに至つて、原告主張の厚生大臣の裁決に認められるように、原告に対しても同法第三四条第二項に基き弔慰金を支給することとなり、国庫債券を交付せんとしたところ、原告がこれを不満として受領しなかつたもののようである。
原告は加藤勉が頑健な体格の持主であつたのに、海軍に入つて数箇月の後に胸部疾患に罹つたのであつてみれば、裁決にあるように原告側で罹病と公務遂行との間に相当因果関係があるとの立証をしなくても、被告側で勉の罹病が同人の素質に帰因するとか、或は同人の不注意に基く等、軍の側に責任のない事実を立証すべきであると考えているようである。感情の上で原告がそうした立論をする気持も、全く理由のないものとすることもできないであろうが、加藤勉の罹病当時の隊内の他の人々の同種の罹病の程度とか、訓練の不適正な強行とか公務の遂行に開連する罹病の可能性について原告は何らの主張、立証をしないものである。なる程、戦争中の軍隊内の諸種の状況については、戦後とかくの批判がされ、軍紀の厳正さについて一抹の疑惑を原告が持つたとしても無理からぬところであるかも知れないが、それらは必至の事態ではないのであつて、公務と罹病の間の因果関係について原告の側に主張、立証の責任を課したとしても、可酷を強いることにはならないであろう。若しも、国家財政が許すならば、軍隊を嫌忌したり、不品行の性行の故にする罹病であることが明かでない限り(即ち、罹病の原因が公務上のものでないことが明白でない限り)、広く国家が進んで遺族を援護して救済手段を構ずることは、必ずしも寛に失するというよりは、却つて、心なくも子弟を看病する機会すら奪われていたであろう遺族の心を慰し、公務に関連して倒れた英霊の心にむくいるゆえんでもあろうと考えられる。
最近伝えられるところによれば、為政者は、援護法をさらに改正して公務死亡の範囲を拡大する等広く遺族を救済せんとしているかのようでもあり、国家が遺族の援護に熱心でないような状況にはないと考えられる。敍上各種の道義的、政治的立場からの考察はさておき、現行法規の解釈として、原告の場合、加藤勉の罹病、死亡が公務上のものと直ちに認定することは、許されないといわねばならない。
原告は、たまたま援護法という実定法規のいわゆる公務死亡の取扱を受けないことを以て愛児の死は「私死」の扱いであり、あたかも「犬死」でもあるかのような侮辱を加えられたようにいうのであるが、それは余りに狭い考え方ではないであろうか。果して国民の誰が、国家機関のいずれが、同人の国家に捧げた至誠奉公の赤心にいささかでも疑惑を持つたであろうか。侮辱を加えたであろうか。そうではなくて、国家機関は原告の立場に深い敬愛と同情の念を以て接していることは窺知するに難くないところである。
斯くて、原告の本訴請求は、その主張立証からして認容するに由なく、失当として棄却を免れず、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 熊佐義里)
計算書
一、昭和一六年より昭和二八年までの仮定収入
昭和一六年 日額 二円 年額 七二〇円
一七年 同 二円五〇銭 同 九〇〇円
一八年 同 三円 同 一、〇八〇円
一九年ないし
二一年 右同額
二二年 同 四円 同 一、四四〇円
二三年 同 五円五〇銭 同 一、八八〇円
(一、九八〇円が正しい)
二四年 同 四〇円 同 一四、四〇〇円
二五年 同 一〇〇円 同 三六、〇〇〇円
二六年 同 二〇〇円 同 七二、〇〇〇円
二七年 同 三〇〇円 同 一〇八、〇〇〇円
二八年 同 六〇〇円 同 二一六、〇〇〇円
合計 四五四、五六〇円
(四五五、七六〇円が正しい)
二、昭和二九年より向う三二年間は年収三六万円としてその収入は合計一、一五二万円(平均寿命六〇年とする)
三、(イ) 墓標建設費 一五万円
(ロ) 霊の安置所建設費 三〇万円
以上総合計金一、二四二万円(但し利息は別である)